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子供の躾(3) [人生]

 昔、子供の躾は家の文化の中で行われた。そして、その担い手は家の女たちであった(けっして、主導権を男が握っていたのではない)。そして、そこには、何代も受け継がれてきたノウハウがあった。

 今はどうか? 家はない……誰が躾の担い手か? 子供の両親……イクメンなどとは言われているが……やはり、母親が主役である。

 だが、母親には経験がない……ド素人である。そこで、育児書に頼る。夫の親が口を出そうものなら、拒絶反応がおこる。子供は家やジジババのものではなく、自分たち夫婦のもの……それが母親の考え方である。

 それには一理ある。だが、自分たちのものと言った以上、その子供が何か社会に迷惑をかけた場合、全責任を持ってもらわねばならない。だが、彼らはたいした責任は感じていない。

 さんざん自分たちの思い通りにやって、うまくいかないときは……学校に責任を押し付ける。学校が、親たちのやり損なった躾の後始末を任されるのである。前にも述べたが、躾は幼児期にしておかないと、始末におえない。学童期になっての躾のやり直しはとてもできない。やれるとしたら、一度出来そこなった人格を破壊するような洗脳に近いやり方に頼らざるを得ない。そんな手段が採用されるはずはない。

 結局、家をなくした弊害が子供の躾におよび、そのし損なった躾で育った成人が社会の構成員となって、社会は負のラセンをたどるしかない、それが今の現状ではないか……そして、そんな構成員でつくられる国家の行く末は? 想像するのも、恐ろしいくらいであるが……どうしようもない。諸行無常と、ただ眺めているしかないようである。


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別れ(1) [人生]

 昨日、ある病院での最後の仕事を終えた。いざ帰ろうとしたら……目の前に人の列が二つ、目の前に現れた。列は、いつも外来診療でお世話になった人たちだ。
 
 二つの列の間に帰る道がある。私を見送ってくれるのか……すぐに分かった。フラワーアレンジメントが用意されていて、それを受け取ると、頭を下げつつ、列の間を抜けて帰途についた。

 私みたいなもののために、花道みたいなものまでつくっていただいて恐縮の至りであった。

 さて、私が影響を受けた宮本武蔵の独行道の21カ条の一つに……「いずれの道にも別れを悲しまず」というのがある。出会いがあれば、必ず別れがある……この当たり前の真理を踏まえたうえで……出会いがあって慣れ親しんだ場所や人とも、時来たらば、淡々と別れて去っていく……そんな風に私なりに解釈している。そして、それを実行して来た。

 今回も、そんな心境ですがすがしい気持ちで、その病院と見送っていただいたスタッフの方々とお別れをしてきた。別れはいいものだ、そう思えて、幸せな気分だった。

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ゲームの効能(3) [人生]

 こんなことがあった。以前勤めていた病院でのことである。

 「先生、ここに来る途中の川ん中へ、車ごと飛び込もうかと思うことがあるとですよ」
午前の外来でのことである。そう言ったのは……ある神経難病の患者だが、その病気は、遺伝性の病気で、常染色体優性遺伝……だから、片親から受け継いだ病気である。

 その患者の場合、母親が同じ病気で、その母親は35歳で亡くなっていた。ぼやいた患者は、当時23歳で、高校卒業後発病し、症状は徐々に彼の行動に制限を課し始め、病院の廊下を歩く姿はぎこちなく、そろそろ車椅子が必要かなと思わせるような状況であった。

 彼は、母親の年齢での死を予期していたのである。それだけではない。死に至る過程、つまり、徐々に症状が進行し、まず、歩けなくなり……車椅子生活となり……そのうち、車椅子での移動にも他人の手を借りるようになり……ベッド上の生活へ……言葉でのコミュニケーションが出来なくなり……口からは食べられなくなり、管からの胃への栄養注入となり……10数年後に、ようやく死を迎える……そんな過程を想像して、冒頭の言葉を吐いたのである。

 それに対して、私は、準備していたわけではないが……ゲームをしながら思ったことを話していった。「人生もゲームでしょう。始まりがあって、終わりがある。どんなに成功しても、どんなに名声を博しても、ゲームが終ればすべて終了なんですよ。あの世があったとしても、持ってはいけないでしょう。それに、成功した人にも、人には言えない苦難や悲劇を背負っていることも多いんですよ。最後まで、ゲームをやりこみましょうよ。○○さんの病気は遺伝病じゃないですか。だから、○○さんの人生ゲームは、その遺伝病を持った人物が主役のゲームでしょう。最後まで、そのゲームをやるしかないですよ。そして、最後に、ああ、いい人生だったと思って、ゲームに勝ちましょうよ。僕も、そう思って人生送っていますよ」
 
 そんなことを私は言ったと記憶している。

 それに対して、○○さんは、にやっと笑い、「そうですね」そう答えてくれた。
 その後、彼から二度と同じ言葉を聞くことはなかった。

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ゲームの効能(2) [人生]

 ゲームの中には、結末が幾つかあるものもある。最高の結末、次善の結末、最悪の結末……などである。私は、最高の結末に至った場合が、ゲームの勝利とみた。そして、思った。ゲームの勝者とは……最高の結末に至り、至福の時を味わえたものを言うのだと……そして、考えた。

 何を考えたのか? 人生の勝者とは?……それを考えてみた。そして、私なりに結論を得た。私の結論とは……? 『人生の勝者とは、人生ゲームで最高の結末に至り、至福の時を味わえた人だ』……私は、そう結論づけた。

 何だ、そりゃ? そんな質問が飛んでくるかもしれない。人生がゲームと同じだということはわかった。それで、人生ゲームの最高の結末とは、何なの? そう聞かれる方もいるかもしれない。それに対する私の答えは何か? それは……「ああ、俺の人生……私の人生って、最高だった」……人生ゲームが終了するとき、つまり臨終の時、そう思えた時が、私の思う、最高の結末である。

 で、どんな人生、どんな臨終だったら……人生、最高ってことになるの? またもや質問が出るかもしれない。 どんな人生? どんな人生でもいい。どんな臨終? どんな臨終でもいいのである。とにかく、自分が、最高の人生だったと、心底、思えればいいのである。それには、人生の途中で、他人様に迷惑をかけず、自分の良心に恥じることのない、そして、自らの責任で理にかなった生き方をしていれば……いつ死のうが、どこで死のうが、いい人生だったと思えるはずである。
 私は、そう思っている。

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ゲームの効能(1) [人生]

 ゲームをやってよかったと思うことが幾つかある。

 ストレス……それは、身体に悪いものの代名詞みたいに言われる。では、人はストレスがかかるのが嫌いなのか? いや、どうもそうではないようだ。我々の脳は、ストレスが嫌いであるように我々に言わせているが、本音は……好きらしい。
 
 ゲームは、たいていのものはストレスを含んでいる。冒険ものでは、難関を切り抜けて行かなければ、結末には至らない。ストレスが嫌いだったら……ゲームなどやらないだろう。ストレスを感じながらも、難関を切り抜けるごとに快感を味わい、最後に結末に至れば……good endとなり……安堵と大きな快感に包まれる……しかし、それもつかの間、また新たなストレスの詰まったゲームを待ち望む。やはり、我々、少なくともゲーム大好きの脳はストレスが大好きなのだ……そう思うに至った。ストレスなんて、大嫌い……そう口で言っておられる人も、実は好きなのである。

 現実の人生を振り返ってみる。これもゲームである。人生もゲームである……リアルではあるが。

 人生が、何故、ゲームなのか? 人生には、始まりがあり、終わりがある……そして、途中にストレスの多い冒険、イベント、そして途中に安息の場も待っている。そして、我々は、それぞれが主人公、まさに、ゲームである。ゲームは楽しむためにする。だから、我々も人生を楽しめばいい、味わえばいい……ストレスも、喜びも、悲しみも……そう思うようになった。

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子供の躾(2) [人生]

 前回の私の言、少し厳しく聞こえたかもしれない。親に哲学がなければ、そして、ふだんから論理的思考をして論理的行動をしていなければ、子供を説得できないと、私は言った。確かにそうなのである。
 そんな哲学など子供に語れる親が五万といるわけないではないか、親がよほどの人でないと子供は出来損なうのか? そんな反論もでるかもしれない。 
 幼少期に躾ができていなければ、そうなるであろう。親に哲学があっても、そこからの矯正は難しいであろう、私はそう思う。だが、幼少期にきちんと躾ができていれば、そう心配する必要はない。思春期以降に、親に哲学がなくても、子供は社会でもまれ、多少傷つきはしても学習しながら自然と育っていく。つまり、最初が肝心なのである。そして、最初ほど、躾はやさしく、あとになるほど、大変なエネルギーを要するものなのである。
 子供を就学するまでの幼少期にしっかりと親の手で親の責任で躾ける、これは子供にとっても、親にとっても、そして、社会にとっても、コストパフォーマンスのよい躾のやり方、言いかえれば頭の良い躾のやり方だと、私は思うのである。三つ子の魂百まで……なんで、こんな至言があるのか? もしかしたら、昔の人の方が頭がよかったのか、そう思ってしまうほどである。で、こういうものこそ、論理的思考にも取り入れるべき、押しも押されぬ常識ではないかと思うのである。
タグ: 教育
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子供の躾(1) [人生]

 子供のについて考えてみた。体罰は必要か? もちろん、必要だと思う。必要ではあるが、時期がある。言葉が通用しない時期だ。3歳ころまでは愛情を伝えるにも身体の触れ合いが必要だし、躾でも身体の触れ合いがなければ親の思いは伝わらない。子供を抱きしめてやるのは親の愛情を伝える手段であり、悪いこと、してはならない(すれば子供に危害が及ぶ)ことをした時には、2度としないよう親の想い、願いを伝える、それが体罰である。体罰は抑制の効いたものであればよい。そして、泣きわめいて言葉で思いを伝えきれない幼児期にはよい伝達手段だと思う。小さい時ほど、身体を使った躾、つまり体罰は有用と思っている。
 三つ子の魂、百までという。この時期の躾が子供の将来を決める。愛情を注ぐことと、甘やかす事を混同してはいけない。子供は猛獣の子供である。ライオンの子供はかわいい。しかし、大きくなると猛獣になる。人間の子供も甘やかすと、手のつけられない猛獣となる。そうなっては、取り返しがつかない。甘やかしは、子供にとって百害あって一利なし。心して躾なくてはならない。
 子供が成長し、自分の思いをきちんと言葉で伝えられるようになるにつれ、親も体罰ではなく、今度は言葉と表情で叱る必要がでてくる。言葉が理解できるのに、言葉で思いが伝えられるのに、体罰を加える必要はないと思う。もちろん、そこまできちんと躾をしているのが、条件ではあるが……。
 中学生以降の思春期になれば、さらに、論理的に説く必要がある。そうでなければ、思春期以降の子供は理屈をこねて、納得しない。この論理的な叱り方、まずは、小さい時に子供をきちんと躾けていなければ通用しない。さらに、親に哲学がなければ、そして、ふだんから論理的思考をして論理的行動をしていなければ、子供を説得できない。なぜなら、子供は、信頼できる大人の言うことしか、聞かないからである。

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わび・さび(2) [人生]

 人生はだけでできているわけではない。光があれば影があるように陽があれば がある。
 絢爛豪華だった建物が、いつのまにか廃屋に……栄華をほこっていた一族が、落ちぶれ果てる……光り輝いていた美貌の乙女が、しわだらけの老女に……諸行無常である。しかし、陽だけを求めていては、陰を避けたくなり、人生は半分しか味わえない。人生の残りの半分は、陰である。陰は、本当に味わえないものなのか? 答えは否である。
 人との別れはわびしく、さびしいものである。愛する人との別れはその極にある。伴侶、恋人、肉親との別れの時、こころ打ち震えるものがあるかもしれない。しかし、そのわびしさ、さびしさを感じる心には、誠はあってもけがれたものはない。さびしさ、わびしさの中には味わい深いものがある。それをしっかりと味わうのが……わびさびの文化、私はそう考える。
 人生にある陽と陰を味わえる人、人生のすべてを味わいつくせる人、それが人生の達人である、私は、そう考えている。
 釈尊は、万物は変遷する、この真実を受け入れない無知が、迷いを招き、そこに欲望がうまれ、欲望が執着を生み、執着が苦しみをつくりだすことを覚ったという。そして、無常という真実を受け入れなければ、心の平穏は訪れない、悟りは生まれないと説いたという。この釈尊の言葉も、同じようなことを告げている、私はそう思う。
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わび・さび(1) [人生]

 「わび・さび」、日本人の心に根付いている美意識のひとつである。わびはわびしい、さびはさびしいから想像できるようにの基準で分類すれば、明らかに陰に属する概念である。
 この暗い言葉が、なぜ日本人の心に根付いたのか? ずいぶん前に考えてみたことがある。答えは美しいからである、とてつもなく美しい。だから、美・意識になった。そんなことは、聞くまでもなく知っている、当たり前のことだ……そう言われる方が多いかと思う。しかし、生活の中に生かされているのか? 案外、そうではない。
 近年、我々日本人は、どこかの文化に毒されたのか、楽しいことはいいことだ、にぎやかなのはいいことだ、いつまでも若く美しいのはいいことだ、老いたくない、若いままでいたい、若く見られたい……そんな喜楽をどこまでも求める、陽の文化が花開き、どっぷりとその文化につかってしまっているようだ。
 いつまでも、若く、年もとらず、長生きをしたい。それが可能なら、いくらでも金を使う。そう願うのも、それをやるのも勝手である。だが、その流れにはまると、避けたいもの、逃げたいもの、怖いものが待っている。病気、老い、死である。この三つ、必ず出会い、絶対に逃げられないものである。
 では、どうしたらいいのか? つづきはまた……。
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哲学 [人生]

 医学生の頃、ある教授から、「医者には哲学が必要だ」と言われたことがある。当時は、まだ医師免許もなく、漠然と納得はしたものの、必要な哲学とは何か? どうやったらその哲学とやらが手に入るのか? 皆目、見当もつかなかった。 卒業後、忙しく医師としての技術的な修練を積む方に夢中で、またそれに追われて、たまの休日にはゴルフにうつつを抜かし、すっかり忘れてしまっていた。
 そして、それを鮮明に思い起こすに至ったのは、それから5年ほど経ってからのことだった。私は、その時、某国立療養所での勤務を始めていた。そこで、赴任当初から、重症の患者さんたちを何人も見送ることになったのである。
 療養所の結核病棟には、抗結核剤が効かなくなった薬剤耐性の重症結核の患者さんたちが何人も入院されており、その療養につきあうことになった。私は、療養所の筋ジストロフィー神経難病の患者さんたちの主治医になるために赴任した神経内科専門医だったのだが、結核を診る医師がいないため、主治医にならざるを得なかったのである。
 亡くなっていかれた患者さんの中には、二十歳代で発病し、婚約者と別れ、三十年以上もの隔離された療養生活を送られ、とうとう病院から出ることなく、亡くなっていかれた女性がいた。その話を病棟婦長から聞かされた時は、何か小説にでも出てくるような話に思えた。隔離された若い患者の中には、うつに陥ったのか、自殺する者も複数あったと50代半ばのナースから聞かされた。そして、未熟な医師である私はただ聞くばかりで、返す言葉がなかった。
 一方、筋ジストロフィー病棟では、20歳前後で、測ったように亡くなっていく少年、青年たちもいた。そんな死にいく患者さんを、助ける術もなく見送ることで、死とは何か? 人生とは何か? 自分なりに考えていき、なんとか哲学と言うか、死生観と言うか、そういったものを自分なりに構築できたような気がする。
 拙著『レム1』(電子書籍)にもそういう哲学に触れた箇所があるが、このブログでも触れていこうと思う。


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