SSブログ
社会問題 ブログトップ

かなり気になるテレビ番組 (1) [社会問題]

 今日午後遅く、民放の番組を見ていた。竹の生命力の強さと生態を詳しく報道している。竹は他の植物と違い、地下茎をはりめぐらすのを優先する……などなどと、ナレ―タ―が解説していく。

 地下茎の構造などを供覧し……ほう、科学番組か……そう思って見ていた。

 ところが……である。最後にこう来た。 「竹は種のために自分の意思で死を選ぶ」 というような断定した言葉だった。

 科学的に論拠を重ねて解説をしてきて……最後に突然、非科学的な話が付け加えられた。まるで、詐欺である、私はそう思った。科学的な論拠が語られれば、全体として、その番組は科学的根拠に基づくものであり、一緒に語られる非科学的なことまで、うのみにされる恐れがある。

 その非科学的な言葉を真に受ければ……竹はいさぎよい、個を犠牲にして種の繁栄を支えているということになる。

 もちろん、種の繁栄のために個を犠牲にするのは、生物全体に言えることであって、うそではない。ヒトの身体でもおきているアポトーシスは、必要がなくなった細胞が死んでいく、自己犠牲を払って死んでいく細胞の特性である。それは、あらゆる生物でおきていることである。だから、“自分の意思で”がおかしい。竹に意思などあるわけない。竹が自己犠牲を払うようにみえても、特性であって竹の意思ではない。特性であるから、当然、迷いもなく、一見、潔く見える。

 意思は、脳の、それも前頭葉の前頭前野の機能である。だから、脳などない竹に、意思などあるわけないのである。番組をつくった人は、視聴者がわかりやすいように擬人化しただけです……と言い訳するかもしれない。

 しかし、視聴者はほとんどが素人である。マスコミは素人を誤解させてはいけない。番組を見ている人は、今時の人とは違って、竹は自己犠牲をさっそうと払う……そう見てしまう……私は、そう思った。

 あの番組を見ている人に、誤解与えないためには……「まるで、竹は自分の意思で死を選んでいるように見える……」などと解説すべきではないか、私はそう思った。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

入試に多様性? (2) [社会問題]

 前回の入試に多様性?  に付け加えることがあった。

 大学入試において、特に国からの補助金が多い東京大学の入試に最も求められるのは……公平性だと思う。

 東大生は、いろいろ言われても、世間ではエリートとみられる。社会に出ても、有利になることが多い。だから、入試において公平な選抜基準が必要と思う。貧乏な家庭に生まれても、勉学に励めばエリートになる道があることになるからだ。

 ペーパーテストの点数だけで選んでいいの? そんな疑問も東大総長の言葉の裏にあるのかもしれない。
そして、長時間の面接によって受験生の資質をみるのだと言う。

 この面接、だれがするのか? おそらく、大学の教官から選ばれるのだろうが、その人たちに17,18の若者の資質の順位付けができるのだろうか? まず、無理である。できるとすれば、この受験生だけはダメということくらいであろうが、それも100%正確にはできるわけがない。とすれば、非常に不公平な選抜法になってします危険性が大である。

 面接、面接とよほどよいもののように言われるが、面接は面接官の多少とも色眼鏡で判断するものである。企業の面接ならば企業の理念や経営方針などがあるから、それに民間企業なら選抜の公平性も厳密でなくてもよいかと思う。裏口入社だって仕方のないことである。

 だが、東京大学は、公的存在である。決して、総長を含め、ある一握りの人たちの思惑で、実験材料にはしてほしくないものである。

 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

入試に多様性? [社会問題]

 先日、東大総長の東京大学の入試改革を語る言葉の中に、「学生の多様性をさらに高めたい」 という一節があった。

 “さらに”がついているので、今の学生に多様性がないとは言ってないことになるが、どうもそうは聞こえない。私には、東大生には多様性がない、と聞こえてしまう。

 生物には、どれも他と同じものはない……それは、生物の大元である遺伝子にそういう特性があるからだと思う。遺伝子は、本来、常に多様性を求め、環境の中で生き残れる個体を増やし続けて行っている。だから、ヒトも含め、あらゆる生き物に同じものはない。
  
 そんなことはない……と言われる方は、違いが分からなくなってしまっているのである。

 一卵性双生児、遺伝子は同じ、だが、生後間もなくはいざ知らず、育つにつれて、行動様式にも、好みにも違いが出て来る。それは、脳の発達が、外界からの刺激によって行われるため、同じ遺伝子を持った一卵性双生児でも、違いが出るのである。

 一卵性双生児は、最初は違いがなく、徐々に違いが生じて行く。これは、双子でないヒトでも言えることである。ヒトは、成長するにつれ、違いがはっきりしていく。同じ学校に通って、同じ制服を着ていても同じではない。ペーパーテストの点数が同じだったとしても、明らかに違っている。

 だから、東大生にも確かな多様性はあるはずである。総長にその確かな多様性が見えないのは、特定の進学校から入る学生が多いため、偏見や思いこみがあるような気がしてならない。

 多様性が少ない……それは、むしろ、ある一定の基準で選ばれた、一定の価値観にしばられた教官側にあるのではないか……そして、学生にそんなに多様性を求めるのであれば、ほっとけば、必ず多様化していく学生たちの邪魔をしないような、教育をすればよいのでは……私は、そう考えてしまう。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

少子化は解決できるのか? [社会問題]

 少子化が叫ばれてずい分経つが、一向に改善はみられない。果たして少子化は解消されるのか?

 私は、改善は見込めないと思う。何故か? 原因が根深く、大きすぎるからである。少子化を解消するために、子育て支援だ、保育所の充実だと、育メンで子育てに男性も参加しようだのと、国は色々とやってるつもりのようだ。

 だが、それらは多少少子化の流れに竿をさす効果はあるとしても、極めて小さいと思う。

 少子化の原因は……就婚率の低下、女性の高学歴化など、いろいろと並べたてられるが、ほんとの原因はもっと根深いものではないのか……私は、そう思うようになった。何故、そう思うようになったのか? 昔のことを思い出したからである。

 セピア色の記憶の中に出て来るものは……板張りの食卓で夕餉をとる大家族の風景である。上座の真ん中にチョビひげを生やした祖父がいて……横に祖母がいて……父、母、私、姉、妹たち、住み込みの男衆、お手伝いのおばさん……土間には飼い犬がいる。

 この光景に出て来る人物も、犬も家の中に仕事があった。祖父、祖母、父、母、住み込みの男衆、お手伝いのおばさんについては、言うに及ばず、我々子供にも、犬にも仕事があった。

 小学生になったばかりの私の家の中の仕事は何か? 毎日ではないが、近所のパン屋に皆のおやつのパンを買いにいく……風呂に水を入れて、沸かす……廊下の雑巾がけなどなど……決して、勉強する、塾に行く、ゲームをやるなどではない。ささやかながら、労働力を提供していた。働かざる者、食うべからずである。

 昔は何のために、子供を必要としたのか? 可愛いから? 育ててみたいから? そんなのは、二の次、三の次だったと思う。では、もっと大きな動機は何か? それは、家に後継者が必要だから、親にとって手助けになる、老後のために必要だからではなかったのか……私は、そう思うようになった。

 家というものを維持するには、後継者が必要であり、それは家のために働く者でなければならない。それには、男の子には小さい頃から家の仕事に参加させる。よその家に嫁にやる娘には、家事全般を習得させておく、それを代々つないで家を維持・継続させてきた……私はそう考える。

 家が社会の最小構成単位、そしてそのために家族の構成員がいる。家の集まりが村、町、郡、市、県、そして国となる。

 今、家が崩壊し、社会の最小構成単位は個人となった。親子も戸籍上、血のつながりだけの親子であって、家を守るための親子ではない。子供が老後の親の面倒をみるなど当たり前ではなくなっている。

 老後に面倒みてくれる子供でもないのに、生み育てる……さあ、昔に比べ、子作り子育てをするモチベーションが湧くのだろうか? もし、やるとすれば、ペットと同じように、可愛いから、そばにいて欲しいから……ただ、その場合、ある一定の年齢までとなる。

 国は次の世代の納税者を必要とする。だから、国の将来を思えば……子供が必要である。だが、国は、老後資金まで、老後の面倒もみない子供の子(孫)への教育資金として、むしりとろうと誘導している。
 さて、家を失くした国民が、国家の将来を、社会の将来を、考えてくれるのだろうか?

タグ:少子化
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
社会問題 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。